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朝見神社について
八幡朝見神社は、建久七丙辰年(1196)十月九日に、大友能直公により御創建されました。
豊前・豊後の守護職として、この地に赴任された大友能直公は入国するとすぐに、鎌倉幕府の鎮守、鶴岡八幡宮の御勧請を志しました。家臣能登助国久は朝見の庄民とともに鎌倉に赴き、建久七年十月朔日、神輿を奉じて久光文字の浜に到着いたしました。 能直公は龍ヶ岡に社地を定め十月九日御鎮座申し上げました。現在の乙原の地であり、豊後八幡宮七社の一であります。 鶴岡八幡宮の社家、福田土佐守源高政が神輿の供をして着任すると、能直公は高政を神主とし、子孫相継ぎます。その後、真応二葵未年(一二二三)、福田をあらためて神(こう)と称し現在にいたっています。守護職大友氏の歴代の尊崇厚く、この年大友親秀公は朝見庄のうち千三百石を神領に寄進しています。 正平三年(一三四八)鶴見山噴火の災いがあり社地等が崩壊したので、現在の朝見の地へと御遷座しました。慶長三年(一五九八)別府湾に震災が起こり、久光島陥没などの変事と共に、御本殿や什宝旧記の多くが壊滅したといわれてます。 寛文十年(一六七〇)に社殿が再興され、元禄九年(一六九六)御神殿と楽堂が新築、同年四月晦日に還宮の祭事が斎行されました。文化十一年(一八一四)には拝殿と回廊が造営されます。慶応四年(一八六八)、明治新政府の神仏分離令により神仏を分離いたしました。 明治六年(一八七三)村社に列せられ、別府、浜脇の総社となり、大正七年(一九一八)には郷社に、昭和十二年(一九三七)には県社へと社格を進めました。大正十一年(一九二二)には御社殿の大改築が、昭和二年(一九二七)に斎殿と能楽殿が新築されました。 戦後、温泉神社を合祀して、名実ともに別府温泉の総鎮守となりました。平成八年(一九九六)の御創建八百年を記念し八幡臺(ばはんだい)や三の宮(光の宮、匂の宮、秋の宮)、朝見文庫が新設されました。 八幡朝見神社は、別府市民はもとより全国から訪れる観光客の尊崇の的となっています。 温泉神社について、 かつて、旧別府公園(現在の青山幼稚園付近)に「温泉神社」がありました。温泉神社は、大正8年(1919年)に、別府市朝見にあった長谷神社(大歳神)と、愛宕神社(迦具土命)を合祀して創建され、大穴牟遅命、少彦名命が合祀されておりました。 この温泉神社で行われた「豊年祭り」が現在の「別府温泉まつり」のルーツとなっており、戦後神道指令により八幡朝見神社に合祀されて以来、「別府温泉まつり」の際、開会奉告祭と温泉神社神輿の御神幸祭は八幡朝見神社で執り行われております。 |
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